熱雨シャワー 霧眠エンジン
朝のはじまりは、熱い雨をひとり占めすることだけだった。シャワーの水音が、眠りの残骸を少しずつ流していく。鏡の向こうの自分は、今日というページに何かを書き込める顔をしているようで、していない。予定はきれいに並んでいた。言葉の学び、世界の出来事、できれば散歩、資料の読み込み、やることの洗い出し。小さな箱に分類された「確認」と「列挙」と「構造」。まるで整然とした棚を用意して、そこに一日を収めるつもりだった。
けれど机に向かうと、文字は砂みたいに指の間からこぼれていった。資料のページを開いても、視線が焦点を結ばない。読むという行為が、遠い国の習慣みたいに感じられる。ニュースも、英語も、散歩も、どれも「できれば」のまま霧の中へ戻っていく。自分の中にあるエンジンが、定期的にふっと消える日がある。誰かがスイッチを落としたみたいに、気力が薄暗い。良くない日、とラベルを貼ってしまえば簡単だけれど、その実態はもっと粘ついていて、言い訳とも違う、ただの重力のようなものだ。
部屋は静かに散らかっていた。散らかりは、乱雑というより、生活の断片が床に落ちて乾ききらずに残っている感じ。片づけたいと思うのに、片づける手が生まれない。必要なのは、整頓の技術より、まず体内のどこかに足りない成分なのかもしれない。薬がほしい、という願いが、救命具みたいに頭の隅で揺れていた。明確な痛みではないのに、確かに助けが要るという感覚だけがある。
やることを洗い出すはずだった。誰がそこにいるのかを確かめ、共有の場所の骨組みを思い描き、疑問点を列挙して、月曜に顔を合わせるなら内側の会議ができるか確認する——そんな段取りが、頭の中で美しい図として浮かぶ。けれど図は図のままで、現実へ降りてこない。今日の私は、計画の手前で立ち尽くす人だった。
結局、月曜は遠隔のままになった。出社という言葉が持つ靴音や廊下の匂いは、未来の別の自分に預けることにする。今日の私は、せめて「何もできなかった」と書き残すことで、何かをしたことにしたい。何もやっていない一日にも、輪郭はある。水の感触、集中できない目、片づけられない床、薬を求める小さな祈り。そして、霧の向こうでまだ消えていない予定たち。明日は、どれかひとつでも手のひらに乗せられたらいい。今日はただ、雨上がりの体で、静かな停滞を抱きしめて終わる。
この記事について
この記事は、朝焼けハヘロの日記()を、
生成AIで加工したものです。
個人情報をぼかすため、抽象化を多用するプロンプトで生成しています。