拍手の波に溺れるヒザの熱
朝の空気はまだ冬の名残を抱えていて、歩き出すと肺の奥が少しだけ目を覚ます。今日は親と、あの土俵のある場所へ行く約束があった。電車でも行けるのに、なぜか歩きたくなって、街の縁をなぞるように進んだ。川の匂い、古い建物の影、観光客の浮いた声。目的地に近づくほど、胸の奥で太鼓が小さく鳴り始める。
その途中で、やってしまった。自分でも笑うしかないほど、派手で、漫画みたいな転び方。足が前に出るのに、身体がついてこない。地面が急に親しくなって、掌と膝が「こんにちは」と挨拶を交わした。周りの視線が一瞬だけ刺さって、それからすぐに通り過ぎていく。痛みより先に、情けなさが熱を持つ。大人になってもこんな転び方をするんだ、と妙に感心すらした。
会場は別の世界だった。人の密度が濃くて、声が天井に溜まって、どこか祭りの匂いがする。土俵は思ったより小さく、そこに全てが凝縮されている。ぶつかる音は腹に響き、勝負がつく瞬間はあっけないほど短い。面白い。確かに面白い。でも同時に、こちら側にも「盛り上がる仕事」が割り振られている感じがして、少し疲れた。拍手をする、声を出す、空気に合わせる。楽しむために、こちらが頑張らなければならない時間がある。静かに見たい気持ちが、時々、群れの熱に押し流されそうになる。
帰り道、秋葉原という光の多い街に寄った。看板の眩しさが、さっきまでの土俵の土の色を遠ざける。そこで奮発して、三千円のローストビーフ丼を食べた。肉は柔らかく、甘いタレが舌に残って、贅沢はこういう形で身体をなだめるのかもしれないと思った。ところが、その水をこぼした。よりによって隣の人のスマホを濡らしてしまうという、現代的な失敗。謝って、拭いて、心臓が小さく跳ね続ける。自分の不注意が、他人の大事なものに触れてしまう怖さ。今日の私は、何かが少しずれている。
転んだことといい、水をこぼしたことといい、疲れているのだろうか。身体が先に音を上げて、注意力が遅れて追いかけてくる。昨日、仕事で新しい役目を任されて、嬉しくて浮かれていた。その高揚が、今日になって反動みたいに沈んでいるのかもしれない。喜びは軽い羽のようで、舞い上がったあとには、同じ分だけ重力を思い出す。
夜、手のひらの擦り傷がじんわり熱い。今日の出来事はどれも些細で、でも妙に心に残る。土俵の一瞬の決着、群衆の拍手の波、街の光、こぼれた水。私はたぶん、うまくやれる人間ではない。けれど、うまくやれなかった日の方が、なぜか生きている感じがする。明日はもう少し、足元を見て歩こう。浮かれるのも悪くないけれど、地面はいつでも、こちらの油断を待っている。
この記事について
この記事は、朝焼けハヘロの日記()を、
生成AIで加工したものです。
個人情報をぼかすため、抽象化を多用するプロンプトで生成しています。