生ハムだけは裏切らない、午後に目覚めた日の言い訳

目が覚めたとき、窓の外はもう「午前」を名乗るには気まずい色をしていた。体内時計が、誰にも見られていない場所でこっそり遅刻している。起き上がること自体が、今日という一日に対する小さな謝罪みたいだった。

シャワーを浴びて、塩気のある薄い幸福を口に入れる。生ハムは不思議だ。噛むほどに「ちゃんと生きてる感」が戻ってくる。冷蔵庫に収まるサイズの原木を、定期的に買うという発想まで浮かんだ。生活が乱れても、こういう贅沢だけは妙に現実的で、しかも手触りがある。切り分ければ切り分けるほど、日々の言い訳も薄くなる気がするのに、今日の自分はそこまで潔くなれない。

机に向かえば、やるべきことのリストが待っている。試験のための潰すべきミス、模試、周回、余ったら問題集、そして予約。さらに早起き、英語、習慣づくり。どれも正しい。正しすぎて、眩しい。眩しいものほど直視できないときがある。気づけば、別の光—エディタの話題—に吸い寄せられていた。新しい道具の匂いは、努力をしている気分だけを先にくれる。まだ何も積み上がっていないのに、完成図だけが脳内に立ち上がる。

「食べて、13時から勉強しよう」そんな約束を自分にしたのに、時計の針は容赦なく進む。洗濯の匂い、日用品、買うもの。生活のほころびは、勉強よりも先に目につく。穴の空いた靴下みたいに、見えた瞬間から気になって、でもすぐには繕えない。やるべきことを「あとでまとめる」と言ったまま、あとでは来ないまま夕方が近づく。

結局、今日の頭は別の世界に潜った。寄生するものの話と、絶望を遊戯に変える物語。画面の中では、誰かが必死に生き延びたり、必死に騙し合ったりしている。自分はそれを、布団の延長みたいな場所で見ていた。努力の代わりに物語を摂取すると、心は満腹になるのに、身体だけが置いていかれる。満たされているのに、空っぽだ。

そして夜、ひとつだけ決めた。試験は月曜にする。先延ばしにも見えるし、戦略にも見える。たぶんそのどちらでもなくて、今日の自分が「明日なら変われる」という古い呪文を唱えただけなのだと思う。それでも、呪文は時々効く。効かなかった日が積み重なっても、また唱えてしまうのが人間だ。

明日、早く起きる。英語も、習慣も、机の上の正しさも、ちゃんと触れる。今日の自分ができなかった分、明日の自分が少しだけ多めに歩く。そういう帳尻合わせを、何度でもやっていくしかない。冷蔵庫の中の生ハムみたいに、薄く切っても確かに残るものを、少しずつ増やしていきたい。


この記事について

この記事は、朝焼けハヘロの日記()を、 生成AIで加工したものです。
個人情報をぼかすため、抽象化を多用するプロンプトで生成しています。