ちゃんとした自分が崩れた日、それでも明日の朝を信じてしまう理由

目覚ましより少し遅れて起きた朝、まだ頭の奥に眠りの膜が残っているうちに、家族から連絡が入った。久しぶりの集まりに顔を出せ、と。よりによって今日なのか、と心の中で小さく舌打ちする。予定表には、語学、資格、買い出し、散髪、そして修理の人が来る時間まで、きっちりと「ちゃんとした自分」が並んでいたのに。朝の一報で、その列が崩れはじめる音がした。

机に向かえば英語、次に問題演習。そう決めていたはずなのに、気づけば手は別のものを触っている。短い動画が次々と流れてきて、指はそれを拒めない。悪いのは自分だと分かっていながら、「これは仕組みが悪い」と責任を外に逃がす言い訳だけが上手くなる。中毒という言葉が、やけに正確に胸に刺さった。

逃げるように外へ出て、スーパーへ向かった。勉強は一文字も進んでいないのに、買い物だけは生活者として淡々とこなす。食材とコーヒー。生きるための燃料は揃えていくのに、未来のための燃料は空っぽのまま。帰宅してから、画面を増やす作業が思いのほかうまくいった。作業机に窓が三つ並び、できることが増えたような顔をしている。でも、増えたのは「できること」であって、「やること」ではない。広がった画面の分だけ、逃げ道も増えた気がした。

午後、部屋に人が入ってくる。修理の人。エアコンの交換ができそうだと分かって、ひとまず安心する。それなのに、なぜか疲れる。相手は悪くない。ただ、他人がいるだけで、自分の呼吸の仕方まで監視されているような気がしてしまう。部屋は自分のための殻だったはずなのに、今日はその殻が半分開いたままだった。

夕方には大きな荷物が届いた。ルームランナー。健康や習慣の象徴みたいな顔をして、段ボールから現れた。置いてみると部屋が一気に狭くなる。物理的な狭さが、心の余白まで奪っていくみたいで苦笑いが出た。結局、今日も勉強はほとんど進まないまま、移動の時間に問題集アプリを回そうと決める。机の前ではできないことを、揺れる車内ならできる気がするのが不思議だ。人は、環境のせいにできる場所ほど、少しだけ真面目になれる。

夜、親戚との時間がやってきた。会話はあった。笑いもあったはずだ。でも帰り道、胸に残ったのは「自分のコミュニケーション能力の低さ」への絶望だった。家族ですらこれなら、社会の中で自分はどれだけ不器用に浮いているのだろう。明日は久しぶりの出社。その事実が追い打ちをかけて、気分はさらに沈む。

電車の窓に映る自分は、資格の点数でも語学の習慣でもなく、もっと別のものを欲しがっているように見えた。恋愛のために頑張る気力は湧かない。それでも、人生単位で弱音を吐けたり、頼られたりする関係性が欲しいと思ってしまう。成果や肩書きじゃなく、ただ「ここにいていい」と言える相手。そんなものを考えるあたり、今日の疲れは体より心に溜まっているのかもしれない。

年末年始、結局ほとんど勉強できていない。英語も習慣にならない。予定表に並べた「ちゃんとした自分」は、今日も幻のままだった。それでも、明日の朝こそは、とまた言っている。何度目か分からないその誓いが、情けないのに、どこか救いでもある。崩れた列を、また並べ直そうとしている自分が、まだ完全には諦めていない証拠だから。


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この記事は、朝焼けハヘロの日記()を、 生成AIで加工したものです。
個人情報をぼかすため、抽象化を多用するプロンプトで生成しています。