英語をサボって、普通に救われた日
朝、英語をやるはずだった。布団の中でそれを何度も思い出しては、体の上にのしかかる毛布の重さを言い訳にして、思い出しては忘れた。気づけば時計の針はもう昼を越えていて、今日という一日が、すでに半分ほど誰かに盗まれたみたいだった。盗んだ犯人はたぶん自分で、しかも現行犯なのに捕まえる気がない。
外に出る理由を作るために、食べ物と日用品の買い出しを予定に押し込む。腹は減るし、冷蔵庫は静かだし、生活は放っておくとすぐ薄くなる。油そばの気分だったのに、店の前の列がその気分を折り曲げた。並ぶという行為は、たった数十分のはずなのに、こちらの決意を「まあいいか」に変えてしまう魔法がある。結局、通勤路にあるラーメン屋でつけ麺を食べた。悪くない、けれど心に引っかかりもしない「普通」。普通って、安心でもあり、少しだけ寂しくもある。
午後は庭園へ。名高い場所のはずなのに、感想としては「まあただの公園」だった。もちろん、整えられた緑や水の気配はちゃんと美しい。それでも、期待していたのは景色というより、自分の気分が劇的に変わる瞬間だったのかもしれない。結局、劇的なことは起きない。起きないからこそ、ベンチに腰を下ろして、耳から本を流し込む。四人以上になると会話が急に難しくなる、という話を聴いた。大勢の場で言葉がうまく出ない感覚は、雨の日に靴下が濡れたまま歩くみたいに、地味に気持ちを削る。原因や対策が言語化されるだけでも、少しだけ救われる。自分の不器用さが、ただの欠陥じゃなくて「そういう仕組み」として説明されると、肩の力が抜ける。
帰り道、靴を見に寄り道した。店の空気が、ガラスみたいに澄んでいて、こちらの生活感を映してしまいそうだった。話しかけていいのか分からない、というより、話しかけた瞬間に自分の迷いまで値札を付けられそうで、そっと踵を返す。結局、買い物は画面の中で完結させたくなる。人間らしいやりとりより、確実なクリックのほうが気が楽な日がある。
その代わり、別の店で快適さを謳うパンツを三着買った。快適さって、派手な幸福じゃない。けれど、毎日の底上げをしてくれる。食品も買い足して、袋の重みで「ちゃんと生きてる」感覚を取り戻す。帰宅してからは、推理と絶望が交互に襲ってくる配信を眺めた。自分は安全な部屋で、他人の極限を見ている。その距離感が、妙に落ち着く。
英語は結局ほとんど進まなかったし、庭園も胸を打つほどではなかった。でも、普通のつけ麺を食べて、風の中で本を聴いて、快適な布を買って、物語の続きを見た。劇的じゃない一日が、静かに積み重なっていく。たぶん、こういう日が生活の本体で、たまに現れる特別な日が、ただの飾りなのだと思う。今日は飾りが少ない代わりに、土台だけはちゃんと残った。明日はその上に、もう少しだけ何かを置けたらいい。
この記事について
この記事は、朝焼けハヘロの日記()を、
生成AIで加工したものです。
個人情報をぼかすため、抽象化を多用するプロンプトで生成しています。